10年前に父が亡くなり、1年前には目の前でヒトが鳥に食べられた。「人間」の話
あれから10年経ったちょうど今日。
「人間」「不死」について、これから日本を代表するAI学者の方とサシ飲みしながら話をしました。
あまり気分がよくなるとは思わないけど、
ぜひ最後まで読んで欲しいです。
初めての「死」
父親が突然亡くなって、今日で10年経ちました。
当時、まだ中学一年13歳でした。
いやぁ、マジで時は早いなぁ。
毎日すぐ近くにいた人が亡くなると、何も信じられなくなります。
いつか生き返るっしょ!
漫画でよくある、
実は父親は死んだとされていたけれど、終盤で実は生きてて...
っていうオチだって信じてました。
冗談に聞こえるけど、本気でこう思ってた。
だって、ありえないから。
昨日まで目の前で毎日一緒に飯食ってた人が、
いないんですから。
一緒に住んでなかった他のひいおばあちゃん達は自分がもっと小さい時に亡くなったけど、この時はそれとは違くて。多分、毎日毎日一緒にいた人だったから。
その日のことははっきり覚えています。
でも、父親のことはほんの少ししか思い出すことができません。
でも、こういう出来事が自分の今の原動力みたいにもなってて、この出来事があったかなかったかでは生き方が全く違うと思います。
鳥が人間を目の前で食いちぎる
(写真はもちろん載せてません、安心してください。)
ちょっと話が飛びますが、
その出来事から9年後のちょうど今頃の話。
自分は、その時以降、ずっと
「人間の生きる意味とはなんだろう」
みたいなことを考えていました。
その結果、世界を旅することを決意します。
これはチベットに行った時の話。
チベットのとある村では、未だに鳥葬が行われていました。
読んで字のごとく、
火葬=火で葬る
鳥葬=鳥で葬る
つまり、鳥葬とは、
鳥が人間の死体を食べることです。
それは現地では神聖な儀式とされており、ぜひ見ておいでということで、その現場に立ち会わせていただきました。
距離にして、3メートルくらいのところで。
これは、人生で一番の衝撃的シーンでした。
ハゲワシのような超巨大な鳥がバサバサと集まってきて1人の人間の死体をついばむ。
しかもその数、およそ30羽。
腸も丸見え、足先など骨の多い部分は、食べにくいので最後まで残る。
多くの人は途中で嘔吐してしまうと思います。
そうして最後は、人間の体は骨だけ残り、鳥の食べ物になり、自然に帰っていくというわけです。
この時、改めて人間は自然のサイクルの中で生きていて、
人がいつも食べている食べ物というのは、何かの「死」でもある
ということを思いました。
そして、目の前の人が跡形もなくなくなってしまったこと、人間が食べられている姿は、信じられないものでした。
人は跡形もなくなくなる。
自分も今は動いてるし、意識もあるけど、いつかは死んで、なくなる。
他のみんなもそう。
「魂」ってあるんじゃないかな。
そういう風に考えるようになりました。
というか、そういう風に考えてないとやっていけないというか。
人間をつくる
今日は尊敬する人とサシで飲みに行きました。
あまり詳しいことは書けないけど、
彼は、世界をひっくり返してしまうとんでもない人で、もう数億の資金があってこれから本格始動するAIのスペシャリスト。
なんでお前がこんなすごい人とサシ飲み行けるんだ?と思ってる人いると思うんですが、以前一緒に働いていたからです。笑
そして、本格始動する直前だったからギリギリ会ってもらえたっているのもあります。
この人と話すのは、本当に面白い。マジで面白い。
だいたい2人で話す内容はいつも「人間」の話。
AIの研究者という目線からの話と
人類の起源を辿る旅で実際に見たもの。
つまり、人間の
未来と過去。
真逆な気がするけれど、AIを作り出すということは、
人間を作り出すこと
であり、それらは実はすごく似た話。
そして、もっと言えば、
「人間とは何か?」
という話。
で、その人の話。
IPS細胞で体はもう作れる。
人口知能(AI)で知能も作れる。
「あとは、何が足りないと思う?
それは意識
なんじゃないかな?」
と。なるほど。
意識は、さっきの話でも思った「魂」をもっと具体的に、的確に捉えているように思えました。
うーん。
でも、意識とはなんだろう?
赤ちゃんには意識はあるのか?動物には意識があるのか?
愛は意識に含まれるのか?人間性が意識とは限らないのではないか?
そんなことをずっと話していました。
他の人から見たら、ちょっと引くような内容かもしれないけど、
こういうことを考えるのはすごく大事だと思います。
自分たちのアイデンティティのことだから。
この考えで行くと、
もしも自分たちの意思を移すことができるようになれば、不死になれるということになりますよね?(IPS細胞とAIがあるから)
人間にとって、もっとも怖い「死」という現象。
死は悲しい。
不死になれるならなりたい。
「死」を意識するからこそ、
「生きる」を意識できる
今までに見た身近な「死」。
それが、今の自分を動かすことにもなっています。
自分はいつか死んでしまう、この体は自然のサイクルの中から授かったもの。
こういう考えが頭の中に常にあります。
だから、本気で動ける。
人生の短さ、死はすぐそこにあることを知ると、生きているこの時間が本当に尊く感じられます。大事にしようと思います。
自分の成したいことを精一杯やって、本当に大切な人とたくさん時間を過ごそう、と思えるようになります。
まだまだではありますが、
最近はよく行動力があるとか色々言ってもらうことが増えました。
でも自分の場合はただ、今までの経験により「生」をより意識できているだけだと思います。
誰かの死を見ずとも、本気で意識すれば行動が変わるかもしれません。
何かの決断に困っている人は、そこを意識してみて欲しいです。
何もかもが小さなことのように思えてきます。
こうやって、「生」を意識するということに関しては、確かに人間が作ることは難しいんじゃないでしょうか?
その意識こそ人間にしかできない思考なのかもしれません。
現在、我々は、
「生きれるか」を超えて、
「どう生きるか」という問題に直面していると思います。
そこで、もう一度
「生」を意識し、自分の本当にやりたいことを考え、それを実行すれば、人生がもっと豊かになるし、それぞれがもっと自由に楽しく人生を過ごせるんじゃないかなぁ、
なんてことを考えました。
ここまで読んでくれた方、長いのにありがとうございます。
まだまだ描くのが下手くそだけど、文章だけで言いたいことをしっかり伝えられるように頑張ります。
これからもよろしくお願いします!